「生きる」をテーマに、心という意識世界の不可思議を書き綴ります。

バランスとリズム

肉体にメンテナンスが必要なように、
精神にも適宜メンテナンスがいる。

「思考の垢を落とす」のもそのひとつ。

思考の垢とは、平たくいえば、思い込み。
小難しく言えば、概念。

自分が自分に定めた小さなルールも、
それに縛られてしまえば、垢になるということだ。


考察だが、

その垢を作り出す元は何かと言うと、
現代の人間の価値基準にあるのではないかと思う。


それは、ほとんど二元的に分けられている。


善いのか、悪いのか。

高いのか、低いのか。

優れているのか、劣っているのか。

得なのか、損なのか。

快なのか、不快なのか。

楽しいのか、苦なのか。

聖なのか、邪、あるいは俗なのか・・・・など。


これらの価値基準だって、ひとつの物の見方に過ぎないのに、
人は知らずうちに縛られていて、
これが多くなればなるほど「アタマが固い」という現象に陥る。

反対に、

「こうすべき・・・こうあるべき・・・」という約束事が少ない人は、
洗練された印象で独特な軽さを持つ。


これは、「自分」がないままで
「わからないから何でもいい」という人とは明らかに違うのだが、

「主張しない軽快さの人」との大きな違いは何かというと、
「バランス感覚」ではないかと思う。

常にニュートラルな視座を保持しながら、決して、事に冷めているわけではなく、
どこにでも「オン」の状態でありながら、価値に偏らないバランス感覚。


だが、よく観察すると、
このバランス感覚は、内的な運動神経みたいなもので、
「センス」に近いものではないかと思えてくる。


これを養うには、
内側の「リズム」を知ることかな・・・


ちょっと話が難しくなったが、内側のリズムを知るということは、
人間本質に近づくためのツールではないだろうかと、
いのちの感覚に触れる度に感じている。


内なるバランスとリズム。


自分なりに感じながら考察してみると面白いと思う。

EGO

それはまるで生き物のように

細胞分裂を起こしたり

あるいは 増殖していくように

実体として 身に迫りくる

観念世界という部屋に住み込み

己の正当化と防御に勤しみ

自分勝手な妄想を繰り返す


たくさんの言い訳に こころ奪われ

いつしか それと同化してしまったとき

「わたし」は一旦隔離されていくように見え

己自身の本性を 見失う



自由という 意識の大海原のなかで

「世界」という船に舵取りされた囚われの身を

救い出せるのは 

言葉なき 沈黙の海底に佇む

他でもない 

もうひとりの 「わたし」

わたしはここにいる

わたしを呼ぶ声が聞こえる・・・・

わたしという虚空で

わたしを求める声が聞こえる・・・・


ここにいる

わたし は

ここにいる


あなたの目の前に

後ろに

横に

あなたがわたしを探そうとしている場所すべてに

あなたがわたしにそばにいてほしいという場所に


あなたのなかに

そして

わたしのなかに


わたしは ずっと いる


あなたがわたしに気づかなくとも

あなたがわたしを見つけられなくても


わたしは

ここにいる

ここにいる


時の始まりから 時の終わりまで


時の向こう側から 

時を越えて 意識ある限り


わたしは

ここにいる


何処にも行かない

閃光

私はこの世界で、小さいころから「探してた」。

それが何なのかはわからないまま。


物心ついた頃からぼんやりと思い描く、こころの中の憧憬。

そして、時折感じる混沌の感覚。

不安、孤独、悲しみまでをも伴いながら、
いろいろな感情を直視できないまま感じてた。


「探してた」のは、その混沌を吹き飛ばす「光」・・・のようなもの。

具体的な眩しい光ではなくて、

それが、こころのエリアを越える「摂理」のようなものだった・・・と
気づいたのは大人になってから。


私は音楽からも、それを見つけることを生きがいにしてきた。

シンガーが、ライブやCDなどで、
ふと音楽に「溶ける」瞬間というか、「到達」する瞬間を何度か垣間見ることがあって、

それを感受する私の状態は、
ある種の「トリップ感覚」に近いのだけれど、

それは感情や感覚の「ハイな体験」ではなくて、
実は、その中心に在る宇宙摂理の「閃光」を感じる体験。

それをクラシックや宗教音楽のような何か「特別」な音楽だけでなく、
普通のPOPSにいくつか見つけてて、よく「入ってた」(笑)。

こうして、「閃光」は、
私たちのごく身近に「在る」のだと体感していた。


そのうち、私が感知している「摂理」の感覚を
自分で表現できる媒体はないか?って思ったときに、
絵と詩(言葉)という媒体が浮かんだ。

それで何度かトライアルしてみたのだが、
「閃光」の感覚はあるのだけれど、自分発で表現するには「力」がない。

ここには技術という作為の入る余地はないから、技術力ではない。


「その力って何?」と思ったときに浮かんだのが、
「人生体験」と「生命エナジー」だった。


「探求者」のままの私はまだ若くて、
「閃光」をこの瞬間に表現しようと思っても、

内なる光を携えた人生体験が全く足りないことと、
それを支える生きる力を体感的に知らなかった。


でも、ようやく探求を終えた「今」に来て、

私がこの時期、
創造性を頼りに「表現」に向かおうとする理由がはっきりとわかってきたのは、

「人生」と「生命力」と「摂理」との関係性が結ばれた気がしたから。

スピリットが肉体に入って生きるということは、
それだけでも神秘体験なのだと理解したから。


そして、ここで大切なのは、

そうした本人の自覚とはリンクしないエリアで
内なる光は顕現、表現されているということ。


だから、
いろいろな場所で、

肉体を通して

表現されたものを通して

私は皆さんからも「閃光」を感じている・・・・

きっとみんなもどこかで感じたことがあるはず・・・・


今はただ、私はそれを感じていたいなーと思う。


最近、絵を描いている。

小さな頃から感じている、こころの憧憬だ。

そして、その向こう側に在る 閃光の煌きを 宇宙の旋律を 調和を
自分の内側からいつか表現できたらいいなと思っている。


本当に人は、「わたし」という表現者であり、
世界を創るクリエイターなんだな・・・・

「生かされる」

「生かされる」 *誕生日に寄せて*


なぜ生まれてきたのだろう?

どうして生きているのだろう?


おそらく
この10年 

気づけば
つぶやいてた・・・

最近になって

その理由を問うことはほとんどなくなってきたけれど

それは

自分なりの答えがわかってきたのかもしれない


例えば カルマ 

あるいは

使命 天命などと

ファンタジックな連想に「生きる理由」を求める時期は終わり


自分自身のみと向き合う過程

「生」そのものに目を向けざるを得なくなった胸中で

在りて在るものへのリアリティのみが私を誘い続けた ここ数年


今 享受するのは


ダイナミックな生命エナジー (そして生かされる)

完全なる静寂 (それは在り続ける)

内なる風 (常に変化(へんげ)しゆく)

呼吸 (こうして生き続ける)


過去の記憶がどれだけ私を呼び戻しても

これだけは変わらない・・・・


視座がどれだけ俯瞰であったとしても

これだけは変わらないのだと・・・・


そうして

過ぎ行く事象の正体と

人類が求め続ける人生への答え



「生に生きてこそ」

理解されるものなのだろうと


こうして折に触れ、感じながら生きている・・・・


いつも あなたと共に・・・

プロフィール

Author:月の風人
月音

宇宙にただ独りの「他の誰でもない私」の
人間体験から、人生の理、宇宙の理、
生命の理を体感中。

HP 「月の風人」 
http://tsukine.premaworks.com/

クリエイター

エナジー・ワーカー
ヒーリング・セラピスト
心理&スピリチュアル・カウンセラー

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